研究に興味をなくしました

理系大学院生の日記みたいなものです。since20180425。研究以外のことを書く予定です。研究に興味がなくなり適応障害?っぽいです。なので研究室行かないで休養中。

「適応障害は甘え」という一般の認識は消え去りそうにない

Googleで「適応障害」と検索すればサジェストに「適応障害 甘え」と出てくるので、一般の認識では適応障害は甘えであると考える人が大半なのであろう。実際に自分も1年前くらいまで「精神的に辛くて会社(または大学)に行きたくない」という話を聞けば、「そんなの甘えだろ、気合いが足りん」と思っていた節はあるし、心療内科に通い自身が適応障害っぽいと診断されたものの、甘えているのではと思ってしまうことがある。 

適応障害とは

自身はすぐにGoogle先生にお聞き申し立て、知らないことは調べてしまう人なのでもちろん検索したのであるが、それによると

ある特定の状況や出来事がその人にとって著しい苦痛に感じられ、精神的肉体的に症状が現れるもの

というのが定義らしい(様々なサイトから自分なりにまとめたのでもしかしたら医学的定義があるかもしれない)。著しい苦痛とか不釣り合いな苦痛、堪え難いという感情など、この表現については具体的な数値を出せる訳ではないのであるから、それは人に理解されにくいよな、と思う(例えば、健康診断である検査項目が数値として異常があります、と言われれば医学に疎いほとんどの人でも異常があるという事を理解できるハズ)。

これだけだとなんのこっちゃ?って思うので具体的にはこんなことが考えられるのでは。

  • 大学入学と同時に楽しみであった都会での一人暮らし。しかし思い描いていた生活とは異なり大学ではあまり楽しい友達ができず、興味があると思って選んだ学問についても一切楽しみを感じない。次第に大学に行くこと自体が負担になりそのことを考えると激しい頭痛が襲う。
  • 社会人としてある程度の経験を積み、一人である程度の仕事を任されるようになった。同期の中では出世頭と言われ、周りからは順風満帆であると思われていたが、任された仕事が本人の適正に合わない仕事であり、今までのパフォーマンスを出せなくなる。このままでは周りからの期待に応えられないと思うと精神が不安定になり、睡眠不足になりさらにパフォーマンスが落ちるという悪循環に陥る。
  • 大学の学部時代は充実した生活を送り、大学院では学部4年から所属していた研究室で少しテーマは変更したが研究を続けることに。最初は目新しく将来性のある研究であることから充実した研究生活を送っていたが、あるときに研究に対する疑問を感じ、興味を失ってしまう。なんとかごまかしながら研究を続けたが、ついに朝起きれない、動悸、めまいなどの症状が現れる。

ちなみに最後のは自分の例です。

そしてストレスとなる原因から離れると症状は改善しするが、ストレスの原因から離れられない、取り除けない状況では症状が慢性的になる、とのことである。

あとうつ病とかそういうのもキーワードであるのだけれども、適応障害は風邪みたいなものでうつ病は肺炎とかってイメージらしい。これもどこかのサイトに書いてありました。なるべく引用元は示したいので分かれば加筆します。大雑把に違いを書くと、適応障害はストレス原因がはっきりしストレス原因がなくなれば一時的に健康な状態になるが、うつ病は継続して気分が落ち込んでいる状態であり、一時的に健康な状態にならないらしい。元に仕事が終わると趣味に没頭できたり休日は家族と楽しい時間を過ごせるというのが適応障害ではあるらしい。

治療について

それでは適応障害の治療には何が必要なのか、というと

1ストレス原因の排除

2本人のストレス原因に対する適応力を高める

3情緒面や行動面への介入

があるとのこと。

1ストレス原因の排除、については最もわかりやすい例では転職や退学なのではないか。また、そこまで極端でなくても休職(休学)する、仕事(研究)内容を変更する、人間関係を変える、とかが当てはまるのではないか。環境を変えるというのがわかりやすいかもしれない。

2本人のストレス原因に対する適応力を高める、については適応障害になるパターンがある程度わかっているのでそれぞれのパターンにあったアプローチで解決に導く認知行動療法と呼ばれる方法と、抱えている問題と症状に焦点を当てて解決法を導く問題解決療法という方法がある。前者は適応障害の枠組み全体を俯瞰しゾーニングしたのち各ゾーンの一般的対処法を個別の具体的事例へ適応するというのに対し、後者は個別事例を深く掘り下げるというやり方なのであろう。こういうところはサイエンスとしての取り組み方として良くあるやり方であるなと思う。

3情緒面や行動面への介入、については具体的にわかりやすいのは薬を使うというのがある。しかし対処療法であるのでストレス原因を根本的に排除できる訳ではないという注意点がある。

 適応障害になったら

調べたら働いている人向けの内容しかなかったので研究に当てはならない部分もあるが、大前提として休みが必要。というのも

1疲れていると冷静な判断ができない

2お金をもらいながら休むことができる

3戻りたくなったら仕事が用意されている

 ので焦って誰にも相談せずに辞めることはしないほうが良いと思われる(この点については成功者の自己啓発本を読むと「思い立ったら行動しろ」と書いてあるのでそれに反するが、大前提に冷静に判断できないという危険があると個人的には思う)。復帰する際には仕事量を減らしたり、仕事内容の変更、人間関係の変更など様々な選択肢があることを知っておくことも、もしかしたら精神的に早く立ち直れる要因になるかもしれない。実際に復帰した人の多くは部署が変わったり、転職していたりする。

(ここで研究の場合というか自分自身のことを書こうと思うが、普通の会社であれば部署が変わったり転職できたりするのに、大学院に所属する修士課程、しかも就職をすることに決めている修士の2年の後半では半年後に卒業しなくては多方面に迷惑をかけることになる。それなのに一般的な会社では可能である環境を変更することができないというのは問題ではないのかと個人的に強く思う。この点について改善してほしい。)

また、適応障害になりやすい人は真面目で優等生タイプの人がなりやすいので、適応障害と診断されることに対して「自分が不真面目は人だと思われてしまうのではないか」とかという不安から診断を受け入れられないということが考えられたり、診断を受け入れ休養をとっても「仕事に戻らなくては」と思ってしまったりすることが考えられる。これもどこかのサイトで読んだ受け売りになってしまうが、「復帰しなくてはならない」と考えているのは理性であって、本能では「まだ復帰しないで休養を取らなくてはならない」という風に思っている可能性がある。一つの目安として「復帰しなくてはならない」という考えがなくなるまで休むというのがあるとも書いてあった。結局は本人が「しなくてはならない」というある意味で強迫観念にとらわれている限りは復帰してはならないのではないか。

 

最後に適応障害:風邪=精神:肉体」という構図を一般の認識として広まれば「適応障害は甘え」という認識が変わるのではないかというのを書き記しておこう。

修士課程は奴隷である

理系の修士課程はある意味奴隷である。

と学部で卒業して就職した人と比べて思ったのでその理由を書き出す。と言ってもこれは個人的に修士課程に疑問を持っているから思うのであって、博士に進む人や楽しく修士課程を過ごしている人には関係ないとは思っている。

また前提には自分が今後就職した際に研究職に就く気が一切ないというのがあるので、ものすごく偏った視点になっている。

  • 自分のやりたい研究ではなく研究室のやりたい研究の一部を任される

もしかしたらこれは研究室によって違うのかもしれないが、自分の場合はこうであった。というかそもそも研究について何も知らない状態(せいぜい1年間研究の世界に首を突っ込んだだけ)でその分野で30年とか研究している人たちと同等の研究テーマを思いつくことは難しいのではないか。そうすると研究室では歴代の先輩たちから引き継いだテーマを研究したり、先生が考えた研究の手伝いをすることになる。もしやりたい研究があるのであれば、それは研究者として素晴らしい素質を持っていたというわけで、残念ながら自分にはその素質がなかった。

また修士に上がる前にそのことに気づけばいいのではと思うかもしれないが、院試は学部4年の夏頃に行われるので、研究について半年しかわからない状態でその後を決めなくては行けないし、学部で就職するなら昨今の日程であれば学部3年の3月でスタートしなくてはならない。要するに、この事実に気づくこと自体が困難と言える。

  • お金は貰えるのではなく払う側である

企業で働いている人は給料をもらっているのに、学生は学費と称してなぜかお金を大学に納めている。TAとかあるが、学費と生活費をまかなえるほどのお金が得られるわけではない。大学に学費を払い所属すれば大学内の充実した設備を使えると言われるが、大きな企業に行けば同様に充実した設備がある。結局はやりたいことが大学で出来るのかどこかの企業でできるのか決まっているのであれば悩む必要はない(大学でできるなら博士まで進むし、企業でできればさっさと就職すればいい)が、修士で就職しよう(特に研究と関係ない職に就職しよう)と考えた時点で大学で成し遂げたいことなんてほとんどなくてただ「修士課程修了」の肩書きが欲しいだけだと感じた。

  • 簡単には途中で辞められない

携帯の2年縛りとか問題になっているのに大学院修士2年縛りはなぜ一切問題にならないのか。修士卒の当面の目標である就職に対しては新卒カードがかなり大きいが、学部卒の時点であった「新卒カード(学部卒)」は破棄されて新たに2年間修士課程を過ごさなくては「新卒カード(修士卒)」を得られない。途中でやめるという選択肢がないと言って等しい。大学を卒業するだけの能力があるのにもかかわらず、修士課程を途中で辞めた場合はその人に継続力がないといったネガティブな側面をなぜか取り上げられてしまう。

また修士課程の研究は往々にして歴代の後輩に引き継がれて行くものであるので引き継ぎがなされないとその後に影響が出てしまう。別に個人としては問題ないのかもしれないが、引き継ぎが正しくなされないと割りを食う後輩が出て、twitterとかで「引き継ぎ資料ないし、連絡取れないから具体的な手順もわからず、再現性がない、クソ」と騒がれたりする。まがいなりにも研究に身を置いたのであれば科学の発展としう大きな社会的目標に沿った行動を取るべきだという倫理観に対し、途中で辞めることは反する行動になりかねないし、引き継ぎ資料等を完璧に作れる人は普通に修士を修了できるのではないか。

また聞いた話だが博士課程であれば辞めて就職する人もある一定数いるらしい。その場合は継続力がないとかそういう話は聞いたことないので修士課程のみ待遇悪すぎではないかと思う。

 

ただ、修士卒でないと就職できない企業の研究関連の職種に就きたいのであれば修士に進むことは必須であると思うのでその点は誤解がないようにしておきたい。

一寸先は闇

風邪をひき、治った時に思うあの「やはり健康な状態であることはとても尊いものであるのだ」という感情は毎回思う。そしてそれと同じ感情を今朝感じた。というのも研究を進めなくてはならないという夢を見た。いつもは目覚めない時間に目覚めるし、もう一度寝ても同様の夢を見て、起きた時に動悸が激しく20分ほど起きれない状態が続いた。数日前は研究について考えない生活を送っていたので精神的にかなりクリアな状態だったのに、研究について考えるきっかけができたせいで今朝の症状が出てしまった。やはり健康な状態(クリアな状態)であるのは尊いと思ってしまう。

 

肉体的に現れる症状は周りの人に見えるために周囲からの理解も得やすい一方、精神的に現れる症状は目に見えない(と思われる)ため周囲からの理解もされにくいのではないか。思い返すと大学2年の時にとある友人が大学での学びに意義を見出せなくなり、このまま大学を辞めて実家の方で公務員として働こうかと思っていると相談されたことがある。その時は自分にはその気持ちは本当の意味で理解できなかったけど、今思い返すと現在の自分と重なるものがある。その後、相談してきた彼は大学は辞めることなく卒業し、今は自分の趣味が仕事になるように頑張っているらしい。

 

自分の現在を顧みると、この数ヶ月を振り返ると研究をやっていられないという感情と、あと数ヶ月頑張ればそれなりの会社に入社しそれなりの社会的な地位と信頼、そして安定した生活を得られるという思いが拮抗している。これから40年か50年間の仕事を一つの会社で働き通すかどうかは未知ではあるのだけれども、これまでの人生で自分の置かれる環境は自分のパフォーマンスに大きく関係してくるのであろうというのを感じた。だからこそ、それなりの会社でそれなりの仕事をしながら将来を考えられるというのは視野を広く保てて自分の人生を自分で選択できると思う。また、ここで脱落すると社会はそれをマイナスポイントに捉えることがほとんどであろうというのも理解できている。

 

結局文章にしても自分が今何を乗り越えなくてはならないのかがわからない。来週何しているかさえ考えてもわからない、一寸先は闇である。

行動力

自分の趣味と言えるような本当に好きなことというのは簡単に見つかることはないのではないか。Googleで趣味について検索するとさまざなま内容が出てくる。軽く調べるだけでも100はゆうに超えており、分類して数え上げた訳ではないけど300くらいは調べればリストアップできるのではないか。それでは全ての趣味から自身に最適な趣味を探すことに時間をかけるとしたらどのくらいかかるのであろうか。例えば1つの趣味の体験にかかる時間は5日、費用は3万とすると300の趣味を体験するのに1500日。普通に仕事をしている人を想定し、多めに見積もって週に自由に使える時間を日数換算で3日としても500週はかかる。年間50週だとすると10年かかることになる。また費用はざっと計算して1000万かかる。35歳の平均年収は430万程度らしいので、10年間で稼ぐ金額の20パーセントの金額がかかる。時間も週に3日も使えるなんて相当行動力のある人でないと不可能であると思われるので、とてもでないけど現実的ではない。

 

新しいことを挑戦したいといった内容は良く聞くことであるが、思うに手っ取り早く自分の好きなことを見つける方法は居心地のいい環境を共有できる知り合いを作ることであるのではないか。その知り合いから自分の知らないことを提供してもらい、自身で行動して自分に合っているか調べてみるというのは良いやり方であると思う。そして複数の居心地のいい環境に所属するというのがより幅広い経験をすることへの近道であるのではないか。様々な環境に身をおくことでどこかで居心地が悪くなった時に他に避難できるという利点もあるし、もしかしたら幅広い環境に身をおいている人はその人脈が認められて紹介などで新たに別の環境へ進むことへとつながると考えられる。そしてこれらの環境を手に入れるには行動することが必要である。

 

それなりの数の環境に飛び込んできて思ったことは、行動をしないことは変わらないことであるということである。こんなことは当たり前すぎるかもしれないが、行動するというのは非常に負荷のかかることである。例えるなら2年以上使っているスマホから新しいスマホに変えるような苦労がある。自分用にカスタマイズして使いやすいものの、性能が落ちているものから最新の性能を備えたスマホに変え、扱いに慣れるにはそれなりの時間がかかる。このように行動するにはある程度の負荷が伴う。また変わりたいなら行動するしかないというのは真だが、行動すれば変われるというのは偽であるとも思う。いや行動しても変わらないことの方が多いと思う。でも、向上心を持って自分を成長させたいと思うのであれば行動することのみがその想いを実現することができる唯一の方法ではないのか。

 

書くことは簡単だが実際に行動に移すのは難しく、だからこそ多くのドキュメンタリー番組で様々なことに挑戦し成功を納めた人が取り上げられ、自己啓発本には行動することが一番大切であると書かれるのであろう。

精神的な苦痛と症状

ストレスでやる気が出ないことは程度の差はあってもどんな人にでもあると思う。しかし、それだけでなく肉体的にも問題がではじめたらそれはある一定の精神的なストレス許容量を超えてしまい、脳が危険を取り除くために肉体的に制限をかけているのではないのかと思う。

 

1年前、研究に対してモチベーションが一気になくなってしまった。それは研究に対する魅力を自分で語らなくなってしまったためだと思っている。事の発端は去年の6月くらいにほかの研究室の先輩と話していた時に研究の魅力を話していたことがあった。その時はそのまま楽しく話すことができたのであるが、後日先生から研究に対してそれだけ興味があるなら博士課程に進むべきだという内容をほかの人の前で話されて、なぜだか嫌な気持ちになった。だからその一件があって以降は研究の魅力を語らないようにしたのである。

 

するとそれまで高校生くらいから持っていた研究と研究の先にある科学的事実への興味が一切無くなってしまった。そこからは研究室に行って研究する行為が楽しいことからつまらないことへ成り下がってしまった。それが去年の7月か8月のことである。

 

以降は研究室で研究する理由は単に修士課程卒という認定をもらうために研究をするという姿勢になってしまった。最初は面倒であるなという思い出あったが、数ヶ月すると苦痛でしかなくなり、その中でもどうにか気持ちを保ってやり続けることはできた。

 

2月ごろは精神的な苦痛がかなりひどく学内の相談室に行って相談員と自分の精神的苦痛について話して今後どうするかについて話すことにした。今思えばその時点で朝動悸がするとか眠れないとか身体的にも症状が出ていたのであるが、あと1ヶ月で就活があり、研究から離れることができるとわかっていたのでサボりごまかしながら潜り抜けることができた。

 

そして5月から研究を再開して8月に入るまではどうにか研究を続けることができたが、お盆前に完全にやる気が無くなってしまった。さらにはお盆明けからは平日の朝に動けないほどの倦怠感や無気力感、動悸、発汗など身体的に問題が出始めてしまい、流石にこれは問題であると心療内科を受診した。

 

受診の前はうつ病とかそういう症状なのかなと思っていたが、一部症状と異なる部分もあった。先生と話すと10分しないうちに適応障害ではないかという診断であった。もちろん初診であり先生に自分の状況を正しく伝えられていないので断言はできないが、確かに見受けられる症状が自身の状況にかなり一致している。

 

今は休養を取っており、あと数ヶ月乗り越えれば良いのであるが、かなりストレスになると思う。ただ、この経験は今後の糧になると思っているので、ある意味で試されているのであると思う。

事実と解釈

人にはさまざまな感情が渦巻いているのだけれども、その感情は事実の解釈の仕方でいくらでも変わると思う。

 

小学生の時、国語の問題で「主人公の気持ちを答えよ」というのがあったが、自分にはどうしても答えが1つに決まる事に理解できなかった。それは事実はどんな人から見ても同じであるが、解釈の仕方で感情は大きく変わってしまうからである。

 

世の中の常識の一部はこういう誰かの解釈を押し付けているだけなのかもしれない。一昔前は「長時間仕事するのは美徳」という常識があったが、今はライフワークバランスとかそういうキーワードで長時間労働を美徳とする解釈以外も存在する。また、外国と日本だと食事のマナーや行動規範が正反対のこともあるが、これは解釈の違いであろう。もしかすると今自分たちが当たり前だと思っている解釈の仕方が当たり前でなくなる、そんな時が来るのかもしれない。

 

僕らは簡単に事実を変えることはできないとしても解釈は簡単に変えることができるのである。事実については誰にとっても不変であるが、解釈の仕方は沢山あるとはその通りで自分の見える世界は他人の見える世界と異なる。自分の解釈の仕方については自己中心的であっても良いのではないか。

 

また、事実自体を変える事も不可能ではないのではないか。しかし、それには多くの負荷がかかることが多い。解釈を変えるのは自分の中で完結するが、事実を変えるのは行動をして他の人とかかわらなくてはならない。その分さまざまな労力や時間を必要とし、時としてその行動を批判し、足を引っ張るようなことをする人もいるかもしれない。だが、事実を変えるには行動するというのが必要なのではないかと思う。

どうすればいいのかという悩み

8月に入ってからかなり研究に対するやる気がなくなってしまった。かなり深刻で、以前ならやる事があれば気持ちを紛らわしながらどうにかこなす事ができたのであるが、今回の落ち込み具合はそれまでのとは大きく違う。

 

ひとまず本読んだりして様々な考え方とか取り入れる事をしているけど、本当に今のこの感情のやりどころが見つからないのでそうすればいいことやら。

 

どうすればこの感情を乗り越えられるのであろうか。