思考の記録と掃き溜め

理系大学院生の日記みたいなものです。since20180425。

適応障害を乗り越え修士課程を終えました

先週に修士論文の発表会があり、無事に審査を通過することができました。あとは修士論文の最終版を提出するのみとなり、一年半以上前から苦しんできた研究と距離を置くことができそうです。

  

振り返ってみてもなんでこんなに研究のことが嫌になってしまったのかよく分からないと思いつつ、長々とここに記録として残しておきたいと思う。書く内容は

  • 一年半前に何があったか
  • 一年前に相談室に行き始めたこと
  • 夏に一ヶ月休んだこと
  • 修士論文を書いているとき
  • 修士論文が終わって

 に分けてまとめたいと思う。まぁ想いを書き連ねただけになりますが。

 

 

 

一年半前に何があったか

 昨年度の夏くらいから研究に対してモチベーションがなくなってしまった。今までなんでなくなってしまったのかと考えてきたのだけれども、それは単一の原因があるわけではなく、様々な要因が重なったからではないかと最近は思うようになってきた。

先生にD進することを冗談半分に勧められたから

 自分って本当に研究の世界で生きていきたいのか?自分の興味は本当に今の研究なのか?この研究室にいて将来のアカデミックポストはあるのか?さまざなそのようなことを考えてあまり自分の将来を思い描くことができなかった。そんな状況で先生にD進することを強く勧められた。経緯としては自分の興味がある範囲について話していたら後日その話を掘り返されて「それだけ興味があるならD進しよう」と軽く言われたことがなぜか引っかかったところからである。自分の人生に対して他人が口出しするのはあまり嬉しくなかったし、それが一回だけであれば気にならなかったのだけれども、多くの先生になんども言われて流石にこんな無責任な人とは共に研究できないなと感じた。まぁうまく言葉で表現しきれないけれども、まだどちらか決めていない人に対して何かを強く意見するとそれとは反対の方向に進んでしまうこともあるというのは自分の経験として得たことであるし、今後は自分自身もそういう立場になった時に気を付けたいと思う。

就職した友達がお金を自由に使って自立した生活をしているのを見たから

 これは結構大きな要因に思える。結局経済的に自立した大人というのは自分にはないものであるので魅力的であった。結局大学・大学院に通えるのは親がお金を支援してくれるからであるし、個人的には大学までの学びと大学院での研究の立ち位置について疑問点を感じていることが大きい。というのも研究はある意味で仕事であると考えているので、お金をもらって行うべきなのに逆に学費を払っているし、残業代という概念もなくただひたすらにやっているのはどうなのかと思ってしまった。やっぱりお金は正義。5000兆円欲しい。いや、年収は800万円を越えると幸福度が横ばいになるので年収800万円欲しい。

思った以上に時間を拘束されたから

これはコンスタントに時間を取られるという点(長期的な視点)と1日あたりのタスクをこなす量が多く実質の拘束時間が長い点(短期的な視点)共に個人的には問題であった。この生活を下手したら一生続けるのかと思うと耐えられないなと思った。

当時から時間があれば旅にいきたいと思っていたのに思った以上にその時間が取れなかった。大学院入る時点でそのことはだいたい予測はできたものの、自分の中で旅にいく時間がこれほど大切な時間であったのかと再認識させられた(実は出張ついでに小旅行には行っていたのだが)。また日常的に読書などしたいと思っているのにも関わらず、その時間をあまり取れなかったというのも大きいと思う。結局大学院の二年間で本を読むペースがかなり落ちたと思う。

自分に研究の能力がなかったから

研究に必要な最低限の知識が一切身についていなかったと今ならわかるのだけれども、当時はその事実を認めたくなかった自分がいたと思う。学部時代に学生実験で実験の心構えとかはなんとなく把握していたものの、自分の行う研究に対して何がポイントであるのか分からなかった。これはもしかしたら自分の選んだ研究テーマがポイントを掴みにくい研究テーマだったのかもしれない(というのも立ち上げたばかりの研究であり研究に関して的確な知識を持っている人が身近にいなかったということが言える)。けれど、自分の研究の能力が不足していていくら頑張っても進歩が目に見えないのは辛かった。

 

 

 

一年前に相談室に行き始めたこと

一年前くらいに学内の相談室に行って自分が研究室にいくのが辛いことを相談していた。相談員の方は様々なことを一緒に親身になって話してくださって、その中で自分のモヤモヤがある程度は言語化されていったと感じた。そんな中様々なことを考えていたのでまとめる。

このまま就職する方が人生トータルでは幸せそうだなと思った

自分がやりたいことは何かと考えた時に例えば旅に出るというのがあったが、それで一生食っていけるとは想像できなかったし、それで自分の人生が満たされるのかと言われると甚だ疑問であった。やっぱりそれなりの会社に就職してそこである程度の活躍をして、それとは別に自分の好きなことをする時間があって人生豊かになるのかなと直感で感じたので、就職活動は真面目にやろうと考えた。

もし研究をやめたときにポジティブな理由がない

 結局もし研究をやめるという選択肢をとって「なんで」って聞かれた際に周りを十分に納得させることができるポジティブな理由がなかった。自分自身でも薄々わかっていたのだが、ことの発端は「研究が好きでない」ということであり、結局は逃げていることになってしまうんだと気づいていた。

なんだかんだ世間体は気になってしまう

加えて、修士課程を途中で辞めたなんて言えば周りからの評価はあまり良くないだろうな、などと世間体を考えていた。一つ前のこととも関連するが、結局は自分の選択を自分で納得し、さらには周りを納得させることができないと感じていた。だから世間体なんてクソくらえって気持ちはないわけではないが、結局はよく見られたいという気持ちが勝っていた。 

身近に研究が辛いという人がいた

自分と同様の思いを抱えていた人がいて、その人の話も聞いてきたので、お互いに支え合ってどうにか乗り越えたいと思った。他人の話になるので詳細は割愛。

 

 

 

夏に一ヶ月休んだこと

8月のお盆明けから9月の終わりまで研究を中断して何もしない時間を設けていた。そんな中何を考えて生活していたのか振り返る。

休み始めて二週間くらい

研究なんて辞めてしまおうかと本当に考えていた。休学とか退学とか調べていたし、その後の人生はどういう道があるのかについて調べに調べた。それくらい精神的に追い詰められていた。

自分の場合は研究辞めてしまおうって思っていたくらいで済んでいるが、アカデミアのブラックな環境に病んで自殺してしまう人の気持ちも分からなくないと感じた。結局報道で見た多くの人は「なんでその選択肢を選んだのか」「頭は良いのに勿体無い」とか様々意見するけれども、精神的に追い込まれているときは周りが何を言っても本人の気持ちの変化はほとんどないと思った。結局は自己との向き合いによって解決するしかないと自分自身は感じたし、距離を取るべきとかいう判断自体が追い込まれていて見出せないのだと思う。

解決策ってそう簡単にあるわけではないけれども、精神的に追い込まれる前に様々回避策があることを宣伝し、頭の片隅に引っかかるようにするしかないのだと思う。自分の場合は学内の相談室があることを知っていて、かつ相談室を利用する前に別の場所で相談員と会う機会があって相談に行きやすかったというのはあると思う。結局、運が良かったのかもしれない。 

また心療内科を受診して医師から適応障害ではないかという診断を聞いたこと自体が自分自身を見つめ直すきっかけになったのかもしれない。それまでモヤモヤしていた自分の感覚を言葉としてある程度表現して頭で理解できることはかなり精神的に楽になり冷静な判断を可能にしたと思う。

休み始め二週間から四週間

 実はちゃっかり九州ひとり旅行ってた。楽しかった。あとゲストハウスで他の大学院の理系学生や社会人と会ったりし、それまでの研究生活では感じれなかった刺激を得ることができたのは大きかったと今振り返ると思う。

復帰するまで

 研究室に復帰する前は結構精神的に安定していて、修士論文が終わるまではどうにか這いつくばってでも進み続けてやるという覚悟を決める期間であった。たまに無気力になったりしたものの、一ヶ月前と比べるとかなり安定していた。

 

 

 

修士論文を書いているとき

修士論文を書いているときは研究が嫌だとかいう気持ちよりもどうにかして終わらせなくてはならないという気持ちになった。どんな感覚で過ごしていたをまとめておきたい。

提出三ヶ月前

もうそろそろ書き始めないとなとか考えていた。けれど普段の生活はなるべく研究室には長居しないようにし、土日は完全に自分の時間を過ごすようにしていた。

加えて自分の研究を引き継ぐ後輩ができたので彼のためにも自分がある程度しっかりしたものをまとめなくてはという思いができ、研究を行う原動力となった。自分と近い存在がいることは何をするにも大切であると思う。結局一人で継続してやり続けるにはかなりのモチベーションを要するし、人との関わりの中でモチベーションを保つのもありなのだと思う。モチベーションは内的であっても外的であってもあるに越したことはない。

提出一ヶ月前

 流石に追い込まれていたので、土日も研究室にいく日があった。また平日は深夜疲れて効率が著しく落ちるまで書いていた。この時期がコンスタントにキツかったかもしれない。

修論発表会まで

 修論発表会の前は精神的な浮き沈みが激しかった。自分の知識のなさとか発表練習をすると露呈するし、けれども調べて知識を身につけると自身になるという繰り返しであった。流石に発表前の2,3日はストレスであったが、中高時代の部活の試合前の感覚に近いものがあった。

 

 

 

修士論文が終わって

無事に修士論文の発表会が終わって今の気持ちをまとめたいと思う。

早く研究室の用事を終わらせたい

結局研究室ではやることが沢山あって、修論の最終版の作成、修論で用いたデータと解析ツールまとめ、引き継ぎ事項まとめ、自分が用いた机・装置の清掃、研究で使用したパソコンに入っている個人データを削除、その他雑多なことがある。研究で出会った先生、職員、先輩、同期、後輩とはこれからも節目節目で会えればとは思うものの、研究室を離れる立場の自分は速やかにそして迷惑のかけることがなくこのコミュニティから抜け出すことであると感じている。この想いには研究は好きになれなかったものの、そこにいた人に対しては一切の後ろめたい気持ちはないという表れなのだと思う。

早く旅に行きたい

新しい経験をするのが自身を満たす方法であり、その点ですぐにできるのが旅に出るということであると感じた。というか自分の興味のベクトルが今はたまたま旅であって、研究ではなかったからそう思うのであったのだろうし、もしかしたら数年後に研究に対しての想いが募るかもしれない。けれど今を生きるには今やりたいこと、自分の興味のベクトルを把握してそれに従順に生きることが必要なのではと思う。

新生活が楽しみ

結局新しいこととして新生活はその熱量が大きいと思う。初めての世界に飛び込むことは非常に労力がいることであるけれども、その分自分の経験が豊かになってさらに自分の興味の幅が広がるかもしれないと思うと心踊る。

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最後に

研究に一区切りをつけて今感じることとして研究について何か新しい自分の技能として身についたことは少なかったけれども、修論を書く過程で自分の文章を書く能力が不足していることとか強く感じた。また学内バイトで学部生への教育支援を行なっていたが、そこのコミュニティで得たどのようにして組織を動かしていくのかという知見はこれからの人生に活きていくと信じている。

結局大学院2年間で得たことは人とどうやって関わっていくかということであり、小学校時代からなんとなく集団生活をしてきた中で一番その点について考えていたかもしれない。資格とかスコアなんかよりもそういう人との関わりに直結する人との関わりは今後の人生で活かされるのではないのかなと思う。

 

駄文ではあるが一応今考えたことをまとめれたのでまた何かあったら振り返っておこうと思う。

金を使う

大学生になって一人暮らしを始めた時に周りの友達と話していて思ったのは、かなりカツカツの生活をしている人は多くのところで支出を少なくしようと努力していることを強く感じた。お金がないのにその日の感情で何も考えずにバンバン使って行ってしまうことはアホだとは思うが、それでケチケチするクセがついてしまうのは良いことであるのかと最近思うようになってきた。

 

よく言われることであるが、お金を使うことで将来的に自分にその分のお金が回ってくるという言葉がある。これを聞くたびに今まではなんて無責任な発言なんだと思ってきたが、最近はそこまで間違いではないのではと思うようになってきた。最初はこの言葉を聞いた時に受け身な自分を想像してしまい、お金を単純に使っていればそのうちそのお金の方から自分の元に戻ってくるという意味であると思っていた。けれどもそんな姿勢でお金を使っていては戻ってくるわけがないのであろう。

 

最近はお金を使うことはどんなことでも投資であるのだと思うようになってきた。それが当たっているのか自分の思い違いなのかはわからないのだけれども、少なくとも様々な機会や情報にアクセスするのにはお金を払い投資をしなくてはならない。機会や情報と聞くと大学で教育を受けるだとかニュースサイトで世界のニュースを知るというわかりやすいこと以外にも、話題のお店で食事するとかちょっと高い服を買うとかそういうことも含まれ、それらも投資になるのではないのか。今まで食べたことのない食事を食べることで今までに感じたことのない美味しさを感じたり、敬遠していた高い服を着てみるとその服の価値が分かるようになるのかもしれない。

 

そしてその様々な経験をする事で今までにない感覚を得ることができ、その体験が自分の価値を高めることにつながるのかと思う。そして自分の価値が高まれば必然的にお金も入ってくるのであると思う。だから、今の僕には何がこの世の中で正しいのかなんてこれっぽっちもわからないのだけれども、お金を稼いだらそれを蓄えるのではなく自分の興味のあることに使っていくことが必要であるのだと思う。使い道は食事でも服でもいいし、ゲームでも旅行でも、法に触れずモラルを守ってさえいれば何でもいいと思う。もし使い道が見当たらないのであれば、全て貯蓄するのではなく必要な分を残すかすぐに手に入る形にした上で、全て株やら投資信託やら国債やら何かしら社会全体の利益になることに用いることが必要であるのだと、そう思う。それが結局は自分への投資になるのだと思う。

 

だから大学生、大学院生として6年間ある程度倹約しながら生活してきた中で自分の中で出来上がってしまったお金を使う感覚を少しだけでもいいので多く使うようにしなくてはならないのだと思う。そうしなくては今後の人生が彩りに溢れた人生にする事ができないのだろう。

 

 

 

要するに卒業旅行でめちゃくそ散財してやるわ。

教育の敗北

原発放射能」とか「水素水」とか最近だと「自然派ママ」とか何を元にそんなことを信じているのかわからなけど、そういう話聞くと怖いなって思う。何が怖いって、そういうのが本当に良いものであると信じてしまっている態度が怖いのである。

 

放射能ガア〜」って言っている人の発言を見るとそもそも「放射線」と「放射能」の区別が付いていない人がいて教育の敗北感がある。その単語にある一つ一つの意味を把握していれば理解が捗るのに、一切そういうことをしていないんだろうな。これは理系知識とかそういう問題ではなくて単純に単語の問題だし中学くらいまでの教育が身についていないんだなって思うのだけれどもどうなんですかね。

 

水素水なんてひどいもんで、理科で水素は水にほとんど溶けないので水上置換って習わなかったんですかね。というか水素水飲んでどういうメカニズムで体に良い影響を与えるんですかね。それじゃあ炭酸水は?二酸化炭素を摂取していることになるんですかね。理科の授業をどうせ「置換♪ 痴漢♪ チカン♪」って感じで受けていたんじゃないんですかね。完全に教育の敗北である。

 

自然派ママとか子供が熱出しているのに放置していて目も当てられない。キャベツを頭に被せるとかそういうのを以前見たんだけれども、「アッ、オツカレサマデス」ってなってしまった。電磁波が問題ってそれじゃあ太陽光とか蛍光灯とかどうなんですかね?スマホも携帯も持っていないんですかね?もしかして特定の周波数だけですか?周波数ってわかります???って感じだ。教育の敗北。

 

圧倒的な教育の敗北である。

今年への想い

あけましておめでとうございます。

 

新年は結局実家に帰省して過ごしたのだけれども、やはり2週間後に迫った論文提出日までがストレスでストレスで仕方がない。まぁ、あと1ヶ月頑張ってどうにかすれば、そのあとは働いた分だけお金が入る素晴らしい世界が待っていると思うことで精神保ってやっていきたいと思う。

 

去年の1年間はまぁいろいろあってそれはまた今度振り返りたいとは思うので、今年の目標でも書くとする。

 

まずやりたいと思ってやれていなかった旅を沢山したいと思う。卒業旅行として海外に行く予定も立ててはいるんだけど、やっぱ国内の行ったことのないところに行ったり、行きにくいところへと行きたい。

 

思えば大学時代は時間はあってもお金がないのであまり行かなかったり、研究室に入ってからは研究に時間を取られて行けなかったりと何かと条件が揃わなかった気がする。もちろん旅なんて興味ない人からすれば行っているので行った土地をあげればキリがないのだが、それでも旅先で会う人(特にゲストハウスで会う濃い人)と話すと全然旅に行っていないなと思う。

 

なので、まずは47度道府県を全て行きたい。あと、踏み入れたレベルの行ったではなくその土地を見て食を楽しむっていうレベルでその土地を楽しみたい。そうなると行ったことある土地でもそこまで満喫できていない場所もあるなぁなんて考えたりする。もし都合が合えばひとり旅でなく友達とも行きたいかなぁって思う。

 

というか、大学・大学院の6年間で感じたのは、やりたいと思っても行動しなくては意味がないのだと思った。なので強い決意を持って旅に行きます。はい。

 

次に社会人になるのでバリバリ仕事しようかなと。最初の3年はこなした仕事の質に差はないって聞かされているのだけれども、明らかにその3年後から生まれる差は最初の3年の積み重ねで生じるだろうし、何かを新しくやるときは質より量なのでまずは最低限の質を保ちながら量をこなしてやりたいと思う。

 

またお金を稼ぐのと関連して資金運用とかもしたい。個人的に株とかFXとか少しやっているのだけれどもやっぱりお金が動くのを見ると刺激的なのでそういう楽しみの意味も込めてしっかり知識つけてやりたい。FXですでに2.5万損失出したのでまずは鋼の心で損切り出来るようにならなくてはなぁとか考えている。

 

他には運動も定期的にしたい。大学院の2年間はフットサルに平均したら週1回のペースで行っていたので、継続してフットサルには行って運動するとともに、フィットネスジムとかも行った方が良いかなと考えている。自分の両親を見れば比較的太りやすい体質に生まれてきてしまったと分かるので、やっぱ意識しておかないと30で腹がタプタプとかなりそう。気を付けなくては。

 

最後に自分の楽しいと思う事を優先させてやりたいってのは根本にあるのでそこは揺らがないようにしたい。研究はしないとこの先の人生のプランが崩壊するのでやりたくないけど割り切ってやりますが……

 

1年後、どれだけできているかわからんけど全て満足にできたって言えるようにします。

今を把握する

僕は少し先の未来のことが予測できる。けれど自分にとって、今、大切なことは何なのか分からない。

 

唐突かもしれないが、ふとこんなことを想った。あと1ヶ月で論文を仕上げなくてはならないのに結果も中途半端にしか出ておらず、バカの一つ覚えのようにその状況のことを「ヤバイ」と連呼し、同期のお互いの進捗具合を探りながらいる、そのような状況の中同期と話して想った。集中力も途切れ腹も減ったので同期とコンビニに夕飯を買いに行き、その後飯を食いながら惰性でゲームをして罪悪感の伴った幸福を味わったそのあとにした会話でのことである。

 

僕は少し先の未来のことが予測できる。人と比較できるわけでもないし、実はみんな同様に感じているけれども言葉にしていないだけかもしれない。だけど、自分の過去を振り返ると、中学受験の時には何となく受かるだろうなというところには全て受かり、ここはダメかもしれないと感じたところには落ちた。中高のサッカーの試合でも今日は決めれそうと感じた時にはだいたい点を決めれた。大学受験も何となく受かるか受からないか受験する前から感覚として分かっていた。院試も自分の成績はだいたい思った通りだった。同期の誰が学振を通り、同期の誰が就職をパパッと終わらせるかも予測できた。もしかしたら結果をみて過去の記憶が改変されていたり、間違った予想をした時のことを全て忘れているだけなのかもしれないけど、少なくとも少し先の未来のことが何となくだけれどもわかる。ある程度は。だからこそ9月に研究をやらなくても問題ないと感じて休むという選択をしたのだと思う。そして現在の感覚としてどうにかなりそうである。

 

一方で僕は自分の中で、今、何が大切なのか分からない。少なくとも、今、必死にやっている研究ではないだろう。自分が心から学問が好きでない、というよりありとあらゆる学問の中では比較的好きな学問を研究しているのであるが、他の趣味とかと比べてしまうと優先度が低い。では自分の趣味であることをできればそれでいいのか、と問われると返答に窮してしまう。やはり趣味だけで生活していくのはそう簡単なことではないし、そのための努力をするよりもある程度今まで歩んできた人生のレールが恵まれているからこそ、数ヶ月後からそれなりの企業で働きながら自分のやりたいことをするのが局所的な解なのだと思う。局所的な解から本当の解に自分を変えることができた人々が巷で「好きなことをして生きろ」といったことを書いて儲けている人々なのだと思う。

 

彼らの発言は確かに正しいと思う。しかし僕はそのような人たちみたいに大胆な行動に僕は移れない。赤緑青、金銀、ルビーサファイア、ダイアモンドパールと4世代は少なくともやってきたポケモンで結局マスターボールを使えない僕には現実世界で大きなリスクを取れるわけがない。だから局所的な解に甘んじ、常に本当の解があるのだと夢見ながら行きていくのだと思う。だからいつまで経っても、今、自分がしなくてはならないことと自分の大切なことは完全には一致しないのだろう。

 

僕は自分にとって、今、大切なことは何なのかが分からない。未来がある程度わかるくらいなら、今、何が大切なのか把握して雑多なことをうまく処理できるようになりたい。

トイレのライトが人感センサー

 最近ツイッターでよく呟くのだけれども、ラボのトイレのライトが人感センサーなのでトイレ内で一定時間動かないと電気が消える仕様になっており、大きいのに集中していると電気が消えてしまい、便器に座りながらヘドバンするというみっともない行動をとっているのだけれども、これって自分だけなんでしょうかね。

 

別に自分に何か害があるわけでもなく、だからなんだって話だけれども、みっともないよなと思う。